日本基督教団中京教会
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あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。
(ヨハネによる福音書20章21節)
説教とは…
プロテスタント教会において説教(聖書のお話)は礼拝の中心部分です
その日の聖書箇所を紐解き、イエス・キリストの救いの業について毎週様々な角度から語られています
説教の録音
2024/06/09 花の日・こどもの日礼拝
マタイによる福音書6章28節
「神様の愛」
2024/05/19 ペンテコステ礼拝
使徒言行録2章1~11節
「一同は聖霊に満たされた」
説教要旨
2024/5/26(日)聖霊降臨節第2主日
「真理の霊」
イザヤ書40章12~17節
ヨハネによる福音書14章15~21節
先週は中部教区の総会が行われ、その中で能登半島地震で被災した教会の3人の牧師から報告がありました。地震から5か月が過ぎても被災した町はほぼ全く手がつかない状態です。能登半島は陸からも海からもアクセスが容易ではなく、石川県は現在、県としてはボランティアの受け入れを停止しています。受け入れることができない状態だからです。
七尾教会の牧師が最初に語られたことは2007年に被災した時の援助してくれたことの感謝でした。あの時の支援によって建物が建てられたから今の教会と幼稚園は倒れることなく被災を受けた人たちの避難場所となって用いられた。感謝の言葉から被災の報告が始まりました。続いて輪島教会の牧師が報告しました。教会は礼拝できる状態ではなく牧師館も住める状態ではなく、避難所での生活、避難所での礼拝がずっと続いていました。ところがついに先週の日曜日、ペンテコステの日、完成したばかりの仮設礼拝所で、礼拝がささげられ聖餐式も行うことができました。輪島教会のすぐ近くは朝市通りがあり住宅240棟が焼け焦土と化し一面焼け野原です。その只中で集まった人たちは、ここにもイエス・キリストはおられると聖餐にあずかり、パンと杯をいただいたそうです。最後に羽咋教会の牧師は「震災はとてもつらい経験でしたが、震災によって教会の信仰は深められます。そして、教会はこの地域にしっかりと立ち続け、魂の救いのために、その使命を果たさなければなりません。人々は魂の拠り所を求めています。今こそ教会は、御言葉、救いの言葉を語らなければなりません。」震災を直接体験した牧師ならではの言葉、そこには真実の力があり、なお救いを待ち望む信仰が心に強く迫ってきました。
預言者イザヤは神の前における人間の愚かさ、国々の空しさを語りました。人間もこの世界もこの国も、空しくうつろである。しかし、イエス・キリストは弟子たちに告げておられます。「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」この霊とは、聖霊、神の霊、真理の霊です。この世界で起こっている出来事を知れば知るほど災害や病や死、悲しみや苦しみ、人間の罪、愚かさ、そのようなものに囲まれているような気がします。しかし、その只中で霊が働く。被災された教会の牧師はいっておられました。「今日は教区総会の礼拝に出席することができて本当によかった。大きく力強い賛美の声に励まされた。礼拝とはこんなに力を与え人を生かす力があるということを教えられました。」
能登半島の被災した教会もわたしたちも礼拝において同じ神を信じ、同じ讃美の声をあげ一つとされています。震災の悲しみ、苦しみから立ち上がる力が礼拝にはあります。困難な中に置かれている時にこそ、神の救いの御業が力強く現わされることを信じて、歩んでまいりたいと思います
2024/5/5(日)復活節第7主日
「わたしたちを引き離すことはできない」
ローマの信徒への手紙8章31~39節
パウロは神の愛について語っていますが、それに先立って「現在の苦しみ」について語っています。人間を含めて、すべての被造物は虚無に服している。今日まで、うめき、共に苦しんでいる。この苦しみは2000年前パウロが生きたローマ帝国の時代だけのことを言っているのではなく聖書で繰り返し語られている罪の問題です。どのように生きてもうまくいかない。どこまで行っても答えがみつからない。しかし、そのような苦しみの中でもがいているようなわたしたちこそが救われてる。なぜなら、そのように苦しんでいるわたしたちのためにイエス・キリストは十字架にかかり、味方となってくださった。その苦しみの中に神様の愛があればイエス・キリストがいれば十分である。現在の苦しみの中でこそ救いがある。そのことをパウロは語っています。
コリントの信徒への手紙二には、次から次へとパウロに襲ってきた苦難について綴られています。「苦労したこともずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。…鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」
パウロはこのような苦しみを通してイエス・キリストの十字架の出来事に思いを馳せ、自分は一人ではない、神が味方となってくださっている、そのように信じて教会を建て、神の愛を伝え続けました。代々の信仰者たちもまたイエス・キリストに倣い、パウロに倣い、それぞれの地において苦しみを引き受け十字架を背負ってきました。その労苦の多くは、人に知られることはありませんでしたが、代々の信仰者たちの生き様は教会の力となり、信仰となり、神の愛は伝えられていきました。
「神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。」引き離すことができない、ということは神の愛から離れるなどということは原理的にあり得ない、不可能である。そういうことになります。わたしたちはしばしば躓きます。様々なことが受け入れられなくなったり信じることができなくなったりします。パウロもそのような労苦や艱難を背負っていました。にもかかわらず、その全ての出来事の背後にあるのはイエス・キリストの十字架における罪の赦しであり、最後まで残るのものは神の愛である。神様の愛だけは、わたしたちから離れていくことがない。全てのものを超えて、教会には神様の愛があります。そこにこそ、わたしたちの希望があり救いがあります
2024/04/28(日)復活節第6主日
「迫害の予告」
ヨハネによる福音書15章18~27節
イエス・キリストの復活は、わたしたちが見える、見えない、と判断する次元を超えています。「見ないのに信じる人は、幸いである」というイエスの言葉は、弟子たちだけではなく時間と空間を超えて今わたしたちに語られています。目には見えないけれども今ここにイエス・キリストがおられる。そのこと信じて、わたしたちは礼拝をささげています。イエスは弟子たちに別れを告げる時、もうこれであなたがたと会うことはない、そのようには仰られませんでした。そうではなくて、あなたがたのために場所を用意しておく。そこでもう一度会う。と仰られました。今ここで、わたしたちは十字架の死より甦られたイエス・キリストと会う。それが教会でありそれが礼拝である。
21世紀は神なき時代、人間中心の時代です。世の中に起こっているすべての出来事は、人間によって理解され、説明され、解決される。今できないこともいつかはできるようになる。今更、神に頼る必要もなければ、神を信じる理由などない。そういう時代、そういう世界に、にわたしたちは生きています。では、わたしたちは多くの人々が神を信じない時代にあって何のために教会に来ているのでしょうか。
イエス・キリストは何のために十字架の上で殺されたのか。何のために弟子たちに教会を建てるようにその使命を託されたのか。それは神の愛を示すためです。神の愛がなければ、人間は本当には人間として人間らしく生きていくことができないからです。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。とイエス・キリストが教えて下さった神様の愛があればこそ、人間は本当の意味で人間らしく生きることができる。神の愛は、わたしたち人間にとって、生きていく上で無くてはならないものです。そのことを信じてわたしたちは教会に来ています。イエスは仰られています。あなたがたは世の属していない。あなたがたは人間中心の世界、そういう価値観の中に置かれているけれども、その世界に属してはない。あなたがたが属しているのは神の世界である。あなたがたは神の愛の中に置かれている。あなたがたは既に教会に来ている。
世の多くの人々は、神も信じなければ神の愛も信じていないかもしれません。しかし、わたしたちは知っています。イエス・キリストは最後、弟子たちに仰られました。あなたがたはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。礼拝の中でイエス・キリストがわたしたちの真ん中にいて、勇気を出しなさいと仰られています。今の世界、今の時代に何が起こったとしても、わたしたちには教会があり、そこにイエス・キリストが共におられる。目には見えない神様の大きな愛に守られていることを信じて、わたしたちはこれからも礼拝を捧げ、神の栄光をほめたたえたいと思います。